そんな予測不可能性の苦悶を秘める蛇行を彷徨う中、本邦に終に”秋”が来たのである。此れは私にとって悲観と孤独の緩む事実であった。惑星から寄せられた懐かしい同情であった。
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本来的交流
一日の何処かに必ずただ無言で座り込んで死に掛けているだけの時間があるのだが、同様に公園のベンチで死に掛けていた或る日、大きな犬が真っ直ぐ私に寄って来た。私は警戒するのも忘れて、眼を細めて其の顔付きを窺った。
循環する一瞬
人の何気無い営みが如何に健全で、如何に代え難く尊いか、私は何度でも語り直したい。其れは時間という図り難く万能なる観念が、麗しく機能している心地良さなのだ。
殉死備忘録
私は、其の日遭った本当に予想だにしない裏切りの事を──人間の極限心理までをも消費に供する悪趣味の食い物にされた事を、湿湿と思い返して、あぁ、あぁ、と時に低く虚な声を上げて泣いていた。
本当の花の生命
花瓶に挿した花の命の短き事よ。自然の移ろいに鈍感な現代人としての私は、然う云う花瓶の花の生き死にしか、注意して見て来なかった。いつしか花の寿命は儚く短い物だと思い込んでいた。だって通例花は儚き事の代名詞であるし、玄関先に在るものを超えて花を定点で見守る事など、人生の中で有り得なかったのだから。
神秘的真実について
然し私には其の内でも、特別に、圧倒的に納得の行かない、一つの真実が在る。此の世を覆う不可思議の力を思い知る。其の真実は身近に在りながら、私にとって古代文明の遺せし金字塔や地上絵よりも謎めいて、自然の神秘、人間の認識のまやかしたること、秘密の因果と予定されし不条理を軽やかに暴き、そして披瀝する物である。
泣きながら猫を撫でる
或る人が猫を撫でる時に「いいこ、いいこ」と言ったので、私は初めて自分が其の様に云う事が無いと認識できた。
廃墟愛好趣味の終末
廃墟を愛好する人々の内で平凡な価値観に、「今は失われし嘗ての人々の気配を感じられるのが、物哀しくて良い」というものがある。確かに廃墟には、異常な程に生々しい人間の息遣いが残っている。遊園地の廃墟やラブホテルの廃墟は其の最たるものだ。廃墟を好む趣味の無い人が真っ先に想像するであろう病院や旅館、学校等という部類よりも、人間の欲や快楽、夢の痕が沁み付いた場所の荒廃は、何とも言えない諸行無常さと人間の卑小さを象徴していて虚しく美しい。其処には人間というものが息衝いているのである。
朝と正と夜と虚
朝が苦手だ嫌いだと思っていたが、能く考えてみれば雨の日の朝は好きなのだ。起きてから上衣を羽織り電灯を点けなければならない様な、薄暗い朝が。其れは只の夜よりも余程魔術的で美しい。
死せる者と夢想
人類が、本来決して知り得ない観念を何故だか朧げにでも理解し共有する事が、私にとっては非常に空恐ろしいのであるが、一般的には何ら疑問無く広く受け入れられている様である。此の世で死せる者であれば到底経験し得ない観念──例示するまでも無く、永遠・無限・完全性、神──を、我々が何故か理解し得る、というのは明らかに奇妙で、異常な事である。其れ等を直接認識した事等有る筈も無く、次元を一つ・二つ超えても辿り着くかという極限の高次元的観念を、何故我々は”果てしなさ”として実感しつつ、理解し得るのか…