循環する一瞬

 人の何気無い営みが如何に健全で、如何に代え難く尊いか、私は何度でも語り直したい。其れは時間という図り難く万能なる観念が、麗しく機能している心地良さなのだ。

 一家総出という趣で、老夫婦を中心にご近所さんも手を貸して、畑の周囲の木の剪定をしている家が在った。私は仕事の為駅に向かう途中で、ちらりと横目に見て良い光景だと思っただけで通り過ぎた。其の日の仕事は慣れない社会的集いであった上に夜に及び、私は疲れた身体を引き摺って二十三時頃、再び其処を通り掛かった。一人だらしない足音で坂を下りきった場所、昼時分と違う顔でひっそりと闇夜に浮かぶ畑作地の横に、切り取られた大小の枝葉が条例通りに揃えられて、大きな袋に詰められて居た。其れはたっぷり三つあった。あの作業は”終わった”のだ。経過した時間の長さを考えれば、当然に終わっていると理解できるのだが、私は経過を認識していない。其れなのに私にとって其の作業が”終わっている”というのは、何だか面白かったのである。目に分かる”成果”という物に、他人事ながら私は何だか満足して、大仕事を終えて今既に寝ているであろう老夫婦達を思い其の晴れやかな疲労を羨ましくも頼もしくも思った。

 翌日、昼に起きた私はまた小さな仕事の為に駅前迄行く必要があり、天気の良いのを救いと緩慢に歩を進めていた。そしてあの愛おしい仕事の”成果”を思い出して、また一目見てやろうと思っていた。

 然し其処には、耕された土と、美しく揃った木立の他には何も無かった。道路脇に纏めてあった剪定枝は跡形も無く消えていた。何という事は無い。今朝行政の遣わす収集車が来て、今迄何千何万回と繰り返した様に適切に回収して行ったのだ。何故か私はそんなことに面食らった。

 此の三日間の移り変わりは、何ら特別な事は無いにも関わらず、私を驚かせ感心させた。自室に籠ると、全ては自らの意思に拠ってしか動かない。見ない内に変化している事も進行している事も無いし、突然物が無くなったりもしない。然し外界という関わり合いとして運動する世界の中では、誰かの仕事が知らぬ内に状況や物体を変化させ、赤の他人に影響していく。時間という万能の強引さが、其れを当たり前の営みとして繰り返させる。

 一文字ずつ本を読み進めれば読み終わるという事、月の満ち欠け、洗えば元の通りに食器棚に並び直る食器、「今晩は」という声掛けが朝には「お早う御座います」に戻る事。健全なる日常生活の美しさは”時間”の一過性に在り、同時に循環性に在る。”疑問を持つ事を許さない”今在る生活と運動が、悠久に繰り返される事を私達は知っていて、だからこんなにも、こんなにも繰り返される日常に安堵するのだ。

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