本当の花の生命

 花瓶に挿した花の命の短き事よ。自然の移ろいに鈍感な現代人としての私は、然う云う花瓶の花の生き死にしか、注意して見て来なかった。いつしか花の寿命は儚く短い物だと思い込んでいた。だって通例花は儚き事の代名詞であるし、玄関先に在るものを超えて花を定点で見守る事など、人生の中で有り得なかったのだから。

神秘的真実について

 然し私には其の内でも、特別に、圧倒的に納得の行かない、一つの真実が在る。此の世を覆う不可思議の力を思い知る。其の真実は身近に在りながら、私にとって古代文明の遺せし金字塔や地上絵よりも謎めいて、自然の神秘、人間の認識のまやかしたること、秘密の因果と予定されし不条理を軽やかに暴き、そして披瀝する物である。

廃墟愛好趣味の終末

 廃墟を愛好する人々の内で平凡な価値観に、「今は失われし嘗ての人々の気配を感じられるのが、物哀しくて良い」というものがある。確かに廃墟には、異常な程に生々しい人間の息遣いが残っている。遊園地の廃墟やラブホテルの廃墟は其の最たるものだ。廃墟を好む趣味の無い人が真っ先に想像するであろう病院や旅館、学校等という部類よりも、人間の欲や快楽、夢の痕が沁み付いた場所の荒廃は、何とも言えない諸行無常さと人間の卑小さを象徴していて虚しく美しい。其処には人間というものが息衝いているのである。

死せる者と夢想

 人類が、本来決して知り得ない観念を何故だか朧げにでも理解し共有する事が、私にとっては非常に空恐ろしいのであるが、一般的には何ら疑問無く広く受け入れられている様である。此の世で死せる者であれば到底経験し得ない観念──例示するまでも無く、永遠・無限・完全性、神──を、我々が何故か理解し得る、というのは明らかに奇妙で、異常な事である。其れ等を直接認識した事等有る筈も無く、次元を一つ・二つ超えても辿り着くかという極限の高次元的観念を、何故我々は”果てしなさ”として実感しつつ、理解し得るのか…