殉死備忘録

 貴様が辺鄙な処に棲んでいるからだと言われれば返す言葉は無いのであるが、下リの終電は私の最寄りから二つ離れた駅が終点である。街灯も少なく、時折辻自動車が無人を信じ切った速度で飛んで行くだけの道を、私はより暗い方へ暗い方へと歩かねばならなかった。秋口の温かい夜の気温であった。

 私は、其の日遭った本当に予想だにしない裏切りの事を──人間の極限心理までをも消費に供する悪趣味の食い物にされた事を、湿湿と思い返して、あぁ、あぁ、と時に低く虚な声を上げて泣いていた。愛の純度の話を、私は此の人生で何度も考え、凡ゆる方法に依って弁証してみたが、真実の愛という観念は此の世の公然周知の建前、存在しないし、誰も存在させようと努力すらしない茶番虚構なのであって、『本当に全ての人間と比べて一番に愛しいのでなければ愛しているか分からないから、一度全人類に会わなければ其れは純度に保証の無い蓋然的な愛に過ぎない』『此の真理を踏まえて、其れでも愛を断言するのであれば、内的純度だけは信じて貰えるのではないか』と考える様な狂気は、幼稚な狭量さだと嘲笑された。私は誰に学ぶでも真似ぶでもなく、人格の根本から然う思っているのだから、常に人生は此の種の嘲笑で満たされていた。其の冷や水は溺れ死ね溺れ死ねと私の心に何時迄も貯まり、終に此方が勝手に彼等にこそと思う者共にも同じ反応をされれば、間違った根に生まれながら必死に茎を捻じり世間と同じ花を咲かせんと思ってきた生命の細い糸は、ぷつりと切れてしまった。

 然うして私は助けてくれと譫言(うわごと)を言いながら、ふと見上げた所に在った屋上へと、暗い階段を昇ったのであった。

 

 私があの時結局其処から飛ばなかったのは、下らない、馬鹿げた俗物なりの理由しか無い。

 一つは、高さが明らかに足りなかった事。遠隔の地にビルなど無く、相対的に高く見えた其の建物は三階建だった。自分の行いで長く他人に迷惑を掛ける事になるのも、物を書く能力を失うのも、死ぬより辛かった。

 もう一つは、其処が食料品店だった事。私は世間の責め苦に耐えかねて私なりの美しさに殉死しようというのに、其の最期がこんな凡俗な食料品店で好い訳が無い、完璧な美しさの中で死なんとする事をを妥協してはならない。斯様な無様で高慢な決意だった。

 数十分呆けてから、「家の猫を撫でて抱き締めて、餌を遣りたい」という事に気付いて、階段を降りた。

 ただ此の経験が齎した物は、無様さと高慢さの自覚だけでは無かった。私は一つの発見をしたのである。

 今迄私は自分の言葉の紡ぐ事は、紛れも無く陰鬱と悲嘆の黒胆汁質の水源に依りて在ると思っていたし、より鬱屈すれば、より悲痛であれば、当然により良い物が書けると確信していた。通例、嫌な事が在った日は筆が進み、下書きに眠る呪詛も日記に書き殴った呪詛も、到底他人様には見せられないが痛快な名文だと思えてならない。

 然し其日から私は五日間、何を書こうとも思わなかったのである。

 何の気力も無く、「ああ考えて自殺から逃げた手前、其れに敵う美しい死に方を探し、見付け、設定し、全うするのでなければ、お前は自分自身に対して軽薄な嘘吐きだ!」「奇異ぶって人を見下しているだけだと思われたくなくば、真理への忠誠心を紛い物だと思われたくなくば、早く死ななければならない!」という大変な危機感だけが頭を支配していた。

 創作という行為が人の根幹の深層部分から生まれ、存在すら揺るがす本性に根差す感情の奔流が更に其の代え難い魅力を創出し得るというのは明白に真実であって、満ち足りた人よりも何らかの不和に苛まれる人の方が圧倒的に、創作に意義を感ずるであろう。だが全く絶望してしまうと──心に一切の余剰を失うと、musaの呼び声は竟に届かない。悲嘆と芸術は比例的な階梯構造に無いという発見に驚く人は多いのではないか。()き創作には、()き不幸で充分だったのである。

 因みに理想の美しい死に方は見つかったが、多くの資格や経験が必要である。計画を早めに始めなければ、最早生物的死に間に合わない…。

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