幻想浪漫的綿埃

 子供であった頃、童話で読み覗く架空世界は”よおろっぱ”なる異国と同じ程度には実在していた。併し其の中で、「本当に桃から生まれた子供がいる」だとか「本当に犬が喋って友達になれる」という風にFictionを信じた事は、どれ程幼い頃でも一度も無かった様に思う。ただ、「王子様という役職がある事」や、「金貨や宝石が実在する事」などは、何故かすんなりと真実だと捉えていた。

勉強とは違う、とは何か

 現場主義的な場所から聴こえてくる【勉強とは違う賢さ】なる概念を理解できずにいる。
 賢さである限り、其れは知性である。論理性は学問の根幹であるのでまさか此処に含まれはしないのだろう、と思うと然うでも無い様だ。一体何が【違う】のであろう。おそらく其処で特別に云われているであろう処理能力の速さや機転、閃きは、そのまま学問的・学習的な実績に直結するものであり、殊更に切り離されて強調される必要は無い。

AIは麗しき過誤を選択できるか

 我が弟は情報技術主義者で進歩史観の持ち主であるので、歴史学で学士を取った循環史観の持ち主とは屡々対照的な立場に立って話すのであるが、彼が「翻訳は最も早く機械化できる分野だろう」と言った時の隔絶は我々の歴史の中でも最も深かった。

懺悔室DIY

 私の永遠の憧れ、デ・ゼッサントが邸宅の水槽の中の入れ子食堂と宝飾の亀、ギュスターヴ・モロー美術館の増殖する額縁と螺旋階段…裏腹、貴族階級でもなし、賛助者なども在ろう筈は無く、豊かな資産で以て丹念に異界的建築を顕現させること叶わない我が人生ではあるが、其れならば子供染みた真似事でも良いから、恥を捨てて、やらぬ後悔でなくやった後悔を取ろうでは無いか…

洗浄を免れる郷愁

 精神が毛羽立っている夜は居間で寝る。然ふ云う時の寝室は大抵日中の行いに対する懲罰室となるからである。閉塞的な自己対話強迫の空間に弱った心は耐えられない。家屋の中で最も開放的な性質を備えているのが居間であり、私は其処に救いを求めるのである。寝台という断崖に囲まれた孤島でなく、曖昧な境界を超えて幾らでも延長していく基底の上にぎこちなく寝転がる。

国語の問題集に依て原罪を識る

 小学生向けの問題集を取り扱っていると、屡々国語の文章題に興味深い一節を見つける。特に心に残るのは、ライオンとシマウマについて書いていた物である。本文の骨子其れ自体は日本対「欧米」(実に横暴な括りである)で語られた保守的な文化論であったと思うが、此の記述は面白かった。