勉強とは違う、とは何か

 現場主義的な場所から聴こえてくる【勉強とは違う賢さ】なる概念を理解できずにいる。
 賢さである限り、其れは知性である。論理性は学問の根幹であるのでまさか此処に含まれはしないのだろう、と思うと然うでも無い様だ。一体何が【違う】のであろう。おそらく其処で特別に云われているであろう処理能力の速さや機転、閃きは、そのまま学問的・学習的な実績に直結するものであり、殊更に切り離されて強調される必要は無い。「此の”部分”は”全体”の何処に位置するのか?視点を変えた解法ではどうか?規則性を理解し応用出来るか。」義務教育以来、勉強にも試行錯誤と自己分析的な臨機応変さは常に求められて来た筈だ。大学ともなれば、むしろ独自の閃きこそ、学問に於いて最も重要でさえあると知る。
 ”どう【違う】か”、からの道は断たれた様だから、彼等が”何を【勉強】としているか”からもう一度糸口を探そう。どうやら【勉強とは違う賢さ】を口にする人々が行ってきた勉強とは「暗記能力」のみを要する物であったらしい。確かに暗記能力は多分に求められるものではあった。併し其の方法について一切柔軟な試行錯誤の無かった人間など居るのであろうか。其れは暗記能力と不可分の賢さだ。カンニングといった不正行為を【悪知恵】とも言ったりするが、それは結果の上で勉強と反してはいるものの、少ない努力で高い成果を上げるという知性の一性質の表出でしかなく、勉強と非勉強の賢さの違いを質で分別する事など不可能だ。
 私は【勉強とは違う賢さ】を持つ人間なら【勉強としての賢さ】も充分に持ち合わせているし、若し【勉強とは違う賢さ】を持ちながら勉強での実績が得られていないのであれば、其れは勉強の機会を与えられ無かった、若しくは勉強に対し単に怠惰だっただけである、と考える。人は勉強を”やって来なかった”だけで、【勉強としての賢さ】を失う事など無い。知性は知性であって、其処に対勉強用か否か等という違いは、在ろう筈が無い。

 では何故此の概念が蔓延しているのかと考えると、多くの人間が勉強コンプレックスなるものを持っているのではないかと思い当たる。外的要因にしろ内的要因にしろ勉強に深くコミット出来なかった人間は、知性に憧れこそすれ、其の中心に聳え立つが如き学問という塔の事は憎んでいるので有る。だからこそ歪んだ観念である【勉強とは違う賢さ】等という、自分にも授けられ得る知性の分野を捏造したのではないか?
 併し其れ自体、反知性的な行いである。無知は決して恥では無く、数学、金融、政治、化学、天文…今分かる筈が無いと知ろうともせず諦めている多くの事は、機会さえ与えられれば──そして情熱さえあれば、本当は理解する事が可能なのだ。勉強コンプレックスは其れをみすみす棄てる事になりかねない。勉強に係りそうな分野の知性には触れずにおこう、と尻込みする事になるとしたら、其れは余りにも勿体無い。貴方が若し【勉強とは違う賢さ】を持っていると云われたとしたら。勉強とは違う、等という卑屈なエクスキューズは要らない。貴方はただ、【賢く】【知性的】なのである。

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