本当の花の生命

 花瓶に挿した花の命の短き事よ。自然の移ろいに鈍感な現代人としての私は、然う云う花瓶の花の生き死にしか、注意して見て来なかった。いつしか花の寿命は儚く短い物だと思い込んでいた。だって通例花は儚き事の代名詞であるし、玄関先に在るものを超えて花を定点で見守る事など、人生の中で有り得なかったのだから。

 然し此れは感染症の与え給うた功名、国家より敷かれた軟禁令の内で増えた小さな散歩という新しき趣味の中で、小生は何も変わらず生きて芽吹く草花を愛す様になり、其の姿に注意を向ける様になったのである。然うすると、彼らの寿命どころか、美しき盛りの長いことに驚嘆させられたのである。

 浮釣木が咲いていると初めて認識した──否もっと前から咲いていたのかもしれない、詰まり無関心なる小生が其の命の煌めきに初めて気付いた──のは、初春だった様に記憶している。不思議な形状の花を面白く思い、其の名称を調べたのであった。相応しい名前が付いていることだと感心したのを覚えている。其れが当の植え込みの前を歩く日々を数え、春を過ぎ、夏を超え、秋を終えて、暦上の冬にも踏み入った。彼等は春に見た姿を変える事なく、釣鐘の赤い花弁に蕊柱をぶら下げて咲き誇って居る。此の盛りの長さは、私が花に抱いていた漠然とした薄幸や滅びのあはれさを否定するに充分で、花は”或る生命”として自然の中で競争と変化を生き抜く果てしなく崇高な力を持っていて、我々が勝手に望む儚さとは無縁に強かなのであると、私は初めて識らされた。又或る時に花を四つ五つとつけた背の高い薔薇が荊棘を残して枯れ果て黒茶けたと思いきや、気候のまるで変わった三ヶ月後に同じ様に四つ五つと赤く濡れた花弁を満開にさせたのをも見た。小生は其れを、美しいと思った。

 人間が手前味噌に作り出して、何故か同時に枷にもしている社会生活という箱庭に囚われて居る時、自然は優しくさりげなく、私達の下らない狭い生命を大いなる自然の爼上に載せずに居てくれる。人間達の間で科学技術が”叡智”の冠を授かるのに、何の声も上げはしない。然し今偶然に人の卑小なる事、自然のゆめゆめ管掌し得ぬ事を再び知ってみれば、自然が隅々まで力強く尊く、人間には計り知れない完全性で生きて居ることを、驚愕と共に思い知る。我々が死に絶えた後も変わらず自然は其の生命を続けるのであり、盛りが終わる事は決して無い。

Leave a Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です