朝が苦手だ嫌いだと思っていたが、能く考えてみれば雨の日の朝は好きなのだ。起きてから上衣を羽織り電灯を点けなければならない様な、薄暗い朝が。其れは只の夜よりも余程魔術的で美しい。
朝早い時間も嫌いでは無い。一日で最も駆り立てられず、罪悪感を感じない時間だ。肌寒い五時辺りに珈琲を淹れて猫を眺めて居る時には、世界と云う物がとてもsimpleなものに思えてくる。生きる事など、何も難しく無い様に思えてくる。ただ七時や八時、”真面”な社会性を帯びた時間帯になってくると居心地が悪く、世界は私を弾き出す効率化機械に成り代わるのであるが。
私が耐えられないのは朝陽の暴力性なのである。
其れは単なる一つの天体の輝きという事実を超越して、長い人類史の末裔には「善」「正しさ」「強さ」「正統性」となって降り注いでいる。
私は其れに耐えられない。
人類が小さな死から覚醒する毎に試されるように其の光線を受けるのは、原罪への罰なのではないか?正義に不感の者共は幸いだ。巨悪の器、聖痴愚の器…其の何れでもない小心の捻くれ者は、毎度正統な輝かしさに後ろ暗い想いをして居る。逃げ出して夜に還りたいと日蔭に隠れて居る。其処に偽りの安寧さえ無いと解りながら。”正”の側に立った事は人生で一度も無い。でも其処に生まれながらに座っている人々が大半だ。彼等は其れだけで特権者である。朝に起きて鬱屈せず、昼は人を信頼して働き、夜に愛と安心を教えられている。両親や環境だけでなく、只然う云う物を識る人に生まれつかなかった。人が人を”どうやって”信用しているかなど、教えられて解るものか。日蔭は安寧などくれない。正統性は世界を隈無く管理して監視している。
そんな時に知る。私は夜中の三時に産まれたそうだ。天秤座と蠍座の丁度中間頃に、私の誕生日はある。天秤は人の悪徳に疲れ果て天へ去ったアストレア、蠍はオリオンの傲慢に対するアルテミスからの贈物。何処にも真実性など無い。しかし、朝でも無い夜でも無い時間を好んで、朝陽に快さを赦さない私にとって、太古誰かが綾なした数々の虚構が、不適格の三文字より自尊心を護ってくれる。預言的な出自だから仕方無いのだ。だからきっと今日も、朝陽の死角で言葉を操り続けるのだろう。