人類が、本来決して知り得ない観念を何故だか朧げにでも理解し共有する事が、私にとっては非常に空恐ろしいのであるが、一般的には何ら疑問無く広く受け入れられている様である。此の世で死せる者であれば到底経験し得ない観念──例示するまでも無く、永遠・無限・完全性、神──を、我々が何故か理解し得る、というのは明らかに奇妙で、異常な事である。其れ等を直接認識した事等有る筈も無く、次元を一つ・二つ超えても辿り着くかという極限の高次元的観念を、何故我々は”果てしなさ”として実感しつつ、理解し得るのか…
プシュケーは輪廻転生し、元々全てを”識って”いる──だから我々は”懐かしさ”として、イデア界にしか存在しない”真”を理解し得る。此のプラトン的解釈は、私の恐怖と疑問に応えを与えてくれる数少ない仮説の一つだ。我々は、或いは今現在、当面我々を構成する物の何処かは、本来死せる者としての存在性を超えて其れを”識って”居て、其の果て無き気宇壮大さと偉大なりて甘やかな懐かしさだけを、母親の機嫌を感じる胎児のように理解している。荒唐無稽だと冷笑する者は多いだろう、特段日本に於いては。併し、君が何故「理 ことはり」という観念を理解し得るのか、と訊かれれば、此れに足る定義を誰に懇切丁寧に教わった訳でも無いし、比類無く抽象的で説明し難い此の観念に相応しい語彙として、「理」がア・プリオリに理性に設えられていたとしか言い様が無いという経験的事実を思い出すのではないか。
物理学者ローレンス・M・クラウス曰く、我々の肉体を構成せる原子は全て爆発した宇宙の星々から遣って来た物である。君の左手を構成する原子は、おそらく右手の物とは別の星から遣って来た。我々は星屑なのである。此れは彼も述べる通り極めて詩的な事柄で、私を愉しませる。何より前述した輪廻するプシュケー論を何とは無しに後押ししてくれる様に、私には感じられる。我々が抽象的事項を何故か理解出来る事は、紛れも無い事実で、然も解明されるとは考え難い謎である。我々は現代でだって、そしてきっと未来でも、多かれ少なかれ自然科学と哲学的夢想のあわいに生きていくしか無いのだ、不思議な力を持つ、死せる者として。