自殺志願者へ

 世で叫ばれる自殺抑止の文言が余りにも軽薄で的外れで自己陶酔的で偽りに満ちていると思うので、推敲もせずに書く。
 必ず幸せが訪れる等という、姑息な嘘でしか無い餌、俺に相談に来いという意味不明の自己顕示、自分も自殺願望から立ち直ったと自称する悪質な矮小化、何の絶望の痕も無い能天気な言葉共め嗤わせるな、「あの時自殺しなくて良かった」と思える様な事は、此の世に何一つとて無い。此の世界は、此の社会は、”死ななきゃ許して呉れなかった”だろう。早く死んだ者勝ちであって、生きている限りは命尽きる迄際限無く、悪意で蝕まれ続けるのを当然の事と教育してきただろう。

 人生とは唯の時間である。勝手に始め”させられ”、時が来れば終わる。其の間に種々の何かしらが起こるが、定量等が定められている筈も無い。認知を歪めて無理矢理に幸せになる事を強要されても、従う気にはなれない。其れは明らかに異常で愚かだ。幸福は満たされ果せない。大量生産大量消費の時代、広告産業に於いて日々お前達には此れが足りない、彼れが足りない、人と比べてこう劣っていると突き付けられる我々にとって、満たされない幸福から逆説的に、寧ろ死だけが解脱的な救いだと思われて止まないじゃないか。

 やさしくあわい心の自殺志願者達よ、貴方の人生は本当に、実際に、真に貴方だけの物であり、無知蒙昧に”希望”風な事を述べる茶番感度の低下し切った者共は、全く責任を取ってくれないよ

 では自殺は良いか?と問われれば、僕はただ「何時でも出来る」と思っているのだ。死ぬのは何時でも、好きな時に出来る。其の全く自分本位で究極的な選択肢を隠し持っている、という事実自体が、結果的に今、僕に猶予を与え続けている。「死にたい」或いは「死ななければ」という自殺でなく、「よし!今日僕は死ぬぞ」という自殺ならば、自身で選び取る人生の選択の一つとして”正当”ではないか。然う確信しているのだ。究極に納得して、前向きに救済の為に死ねるのが真に自分という存在が終わるに相応しい時だ。其れ迄は物見遊山気分で、ただ上質な死の契機を選別せんとしている。苦の消滅に過ぎない消極的快ではなく、解放と真理への積極的快としての選択を自分の人生の最期としたいと願っているし、多くの自殺志願者達もまた其の様に、後悔をつゆほども持たないで満足に時を終えられればよいと願っている。此れは本当に僕個人の身勝手な希望に過ぎないのであるが、「自殺は悪である」という無根拠なカルト的教義よりも、幾分説得的な処が在ると思っている。無論、大っぴらに認められてはならない蛇道を往く論であることは、自覚しながら。

 君を追い詰めている物は何なのだろう?世間か、仕事か、言葉か、人か?どうせ死ぬのなら、自分の人生をあと少しの間、最優先して、存分に、愛してみてはどうだろう。仕事などばっくれて、身辺整理して好きな物だけを持って失踪して、借りれるだけ借りた借金でナイアガラの滝にでも身投げする──そんな浪漫を、君は君の人生に与える事だって出来るのだ!

もし其れでも猶予が延びそうに無ければ。きっと社会を変えておくから、来世では安心しておいで。

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