此の夏、自室を着々と『完成』させんと動いている。手始めに部屋の壁を四面、深い群青に塗り替えた。初めは真っ赤にしようと考えていたが、家族に話した所「気が狂うぞ」と止められたので、それならばと群青を選んだ。其れは丸二日間に及ぶ大仕事だったが、仕上がりは素晴らしかった。
私の永遠の憧れ、デ・ゼッサントが邸宅の水槽の中の入れ子食堂と宝飾の亀、ギュスターヴ・モロー美術館の増殖する額縁と螺旋階段…裏腹、貴族階級でもなし、賛助者なども在ろう筈は無く、豊かな資産で以て丹念に異界的建築を顕現させること叶わない我が人生ではあるが、其れならば子供染みた真似事でも良いから、恥を捨てて、やらぬ後悔でなくやった後悔を取ろうでは無いか…そう思って始めた事ではあったが、とは言え捨て切れぬ物が恥である。生来自意識の強い私だから、尚更だ。何を隠そう、是非にも部屋に欲しいと思いながら、まだ「恥ずかしくて」買うに踏み切れぬ物が私には在るのだ。余りにも「ありがち」で、「俗人的」な分かり易い趣味なので、恥ずかしいのだ。
きっと、純粋な人には分かるまい。本流に乗れぬ、乗らぬ事が何時の間にか存在意義に刷り替わって、本流を陳腐なりと嘲笑する事を決して辞められず、竟に自身の趣味を恥と呪い始める者など。然しサブカルクソ女等と本流から揶揄される同胞達が若しや此の日記を見るのではないかと期待して、私は私の素直な心を告白したい。懺悔は救済を得る為に成される。「誰しもに起こる」と。「其の心を更に亜流から揶揄する人間にも、実は其の心──詰り、自身が軽侮する物の中に実は心惹かれる物が在って、認めたくないし、暴露たくもないという心情──はあって、こんな物は全人類にとって公然の秘密なのだ」、と赦して貰いたいのだ。嗚呼私の欲しい物、恥ずかしい、ありふれたアンティーク 趣味は…砂時計、天球儀と地球儀、振り子時計、ブロンズの燭台、古い世界地図、飾り電飾、バロック調の背面装飾の椅子…御手本の様に陳腐なイメージで構築されていて寒気がする。それだと言うのに何度考え直しても、私は其れ等が欲しくて堪らないのだった。
壁は群青になり、敢えて重々しく沈んで、知性的である。にも関わらず、其の中に並べられる物は何らかの刷り込みと借り物でしかない陳腐な「素敵な物」ばかりだと言うのは、私の外面的な装いと実際の内面の、此の上無い象徴的な対比ではないのか。そして其の愚かしい格差こそが、最早、なけなしの私らしさなのではないのか?