僕を脅かしても面白くないだろう

“怖れを味わう”という事が生来好きで、子供の頃はUSOと九死に一生スペシャルを欠かさず見たし、避難訓練の時に流れる音は──私の学校では想定が地震の場合、烈しい地鳴りと破壊音を放送で流していたのだ──腹の底から怖ろしさが込み上げ恍惚とした。そして今も尚新耳袋殴り込みからオカ板まとめ、楳図かずおに伊藤潤二、怪談noteやらやや日刊カルト新聞やらと日々種々の怖れを嗜むのだが、怖れを好む人間というのはその癖、押し並べて怖がりである。と言うのも、心中に怖れが生じない限り其れを味わう事もできないし、味蕾が鋭敏であればある程僅かな差異を感じ吟味する愉しみを得るからである。細い細い弦が少しの怖れで悲鳴を上げて蕩々と心地良い戦慄に身を震わせ、直ぐにでも今一度弾かれる時を待っている。

しかし怖がりであるが故に問題は起こる。恐怖が想像力を悪用して、娯楽の時限を超え平穏を望む時限にも闇と蔭とを媒介に侵蝕して来るのである。風呂場、寝室、階段の先に、死と不安の気配が漂う。いつか怪談で聞いた、背丈が異常に高く部屋の天井辺りから大きく屈んで首筋を垂らす髪の長い女が、背後から私の顔を直接覗き込もうとしている其の吐息が、頬を掠めた様な気がする。神経の過敏があったのか精神が衰弱を期していたのか、先日は一層其れが強く感ぜられた。耐え難い危機感で鼓動の一つ一つにすら後頭部が痛い程震慄き肚が縮み上がる。娯楽に歪められた恐怖が、確実な殺意で僕に復讐しに来たと思った。仮令霊魂や怨念は信じても、「髪の長い女」等と言う具体的実在は一切信じていない。にも関わらず、反証出来るとは思えなかった。そこで、敢えて開き直って「居る」という事を認めてみた。すると、「何故」が次いで遣って来た。「殺す為」?。ならば「何故まだ殺さない?」そうだ、今迄も終ぞ殺されたことは無かった。ならば「脅かす為」?。然しよく考えてみれば、彼等だって脅かすなら僕なんかを選ばない筈だ。死の間際に於いても大した反応は示せないであろう生命力の乏しい奴でなく、健康的に叫び声を上げて泣いて助けを求めてくる根の明るい人間が、彼等だって好きだろう。元は生きていた人間なのだ。社会の大多数の人々と同じに相違無い。

僕なんかを脅かしても面白くないだろう。そんな拗ねた平静の自己嫌悪が、自家中毒的な生命の危機から僕を救って、只静謐に暗く孤独な寝室を取り返してくれたのだった。

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