発車合図に急かされ乗り込んだ車両は最後尾で、同時に最後方の扉でもあった。足を止めずそのまま向かいの隅に落ち着く事に決め、手摺りに頭を預けながらふと車掌室のモニターを眺める。電鉄の運行に必要とされる情報が集約される場所。行先や系統などが書かれた下には簡易的な車両図があって、扉の数だけの四角形を持っている。後に知る事だが、其々の四角形は扉のセンサーと連動していて、完全に閉まっていれば緑、開いていれば黄色に塗り潰される。物体が開閉の邪魔をしている時には黄色の儘で、車掌に異変を伝えるのであろう。更にその下には車内温度、車内湿度、乗車率、空調、送風の情報が一覧表に纏められていて、運行に於ける危険性と云うよりも、我々の最低限文化的な通勤生活の保全を訴えて呉れる様であった。
扉が閉まる。車両図の「山側」の扉が、ほんの少しのタイムラグでゾロゾロッと一斉に緑色に変わった。電車が出発する。見つめ続けるモニターの後方へ焦点の合わないホームが流れ去った。
すると驚くべき事に、密室と相成った筈の電車の乗車率が目紛しく変化するではないか。49%が56%、53%、50%…或いは59%になっていく。一般的に乗車率100%は約140人であるらしいから、最大で凡そ15人、闘球の一個団分が増減した計算となる。ガタンとなる度揺れに負け、窓を突き破って振り落とされてゆく15人の人間を思い浮かべるのは未だ容易だが、逆となると分からない。高架の柱やトンネルの天井に”元々”潛んでいた闘球一個団分の人間達が、揺れの隙に黒いマントを脫ぎ捨てて目當ての車両に飛び乗って来るという想像は、恐怖と滑稽の狭間に有る。
此れが応荷重装置に拠る算出誤差に過ぎないと、私は知っている。知ってはいるが、矢張り私は「飛び去り飛び乗る人々」の様な存在が自身の世界に棲まう事を望んでいて束の間エデンで覚えた林檎の味を忘れてみたりなどするのだ。其処では不可思議と想像力が自然に共存し合って、人類なる創造的存在者は大人という義務の波間で漸くゆっくりと深呼吸が出来る──そんな気がする。