廃墟愛好趣味の終末

 廃墟を愛好する人々の内で平凡な価値観に、「今は失われし嘗ての人々の気配を感じられるのが、物哀しくて良い」というものがある。確かに廃墟には、異常な程に生々しい人間の息遣いが残っている。遊園地の廃墟やラブホテルの廃墟は其の最たるものだ。廃墟を好む趣味の無い人が真っ先に想像するであろう病院や旅館、学校等という部類よりも、人間の欲や快楽、夢の痕が沁み付いた場所の荒廃は、何とも言えない諸行無常さと人間の卑小さを象徴していて虚しく美しい。其処には人間というものが息衝いているのである。

 さて、この現象の因果を私はいつも人工物、建設物の持つ人間の残り香の故だと理解してきた。建物の存在に於いて、我々は人間性を認識し得るのだと。しかし、未曾有の伝染病禍の中で、其の理解が如何に錯雑したものであるか、私は気付かされた。

 様々な飲食店は今年の始めから長らく苦境に晒され、政府の粗末な上遅々とした対応策を待ちきれず店仕舞いを決めた所も少なくない。私がよく通りがかる駅前の飲食店街も、二、三の店が「空店舗」となった。其の、ぽつりぽつりと生まれた「空店舗」を見る度に、私は、其処に口を開ける余りの「無」に驚愕するのである。立地は駅前、有名大学も近く、周囲は大通りを抜ける車の忙しなさや賑やかに楽しそうに行き交う通行人で溢れている。子供の笑い声さえ聞こえるこの街で、「空店舗」は尋常ではない暗さと怖ろしい停止を湛えて居る。其れは突如現れた完全な「無」である。

 廃墟には人の息遣いが残っている。郊外の捨て置かれた片隅で、何十年と昔に忘れられた嘗ての姿を、名残惜しそうに遺している。対して「空店舗」は、ほんの一ヶ月前には朗らかな安心感と幸福の場であったし、今だって人々の喧騒の中にある。張り紙が残っていたり、看板が残っていたりもする。だと言うのに、こちらは人の気配を、全く感じさせない。何が行われていたか、人々のどんな些細で豊かな営みがあったか——そんな事は、一切想像させてくれないのである。其れは整然として無駄の一切無い効率的な建築様式に因る物か。それとも、人の魂に備わっていた、場所に執心し愛し慈しむ性質が、数代に於いて急速に衰弱した故なのか。

 私は或る事が怖ろしくなった。無常を信じる厭世主義者に安らぎをくれる虚しい夢の痕達、其の意味で廃墟と云う物を愛してきた私は、「これから先、最早我々が愛してきたところの廃墟は、産まれないのではないか」、という思い付きに恐怖したのである。現代に於いて、人の不在に残り香は有るのだろうか。誰かが或る場所を忘れ得ない事こそが、夢の痕への愛こそが、超自然的に廃墟を創り出していたとするならば、「空店舗」は決して、廃墟には成り得ないのである。

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