国語の問題集に依て原罪を識る

 小学生向けの問題集を取り扱っていると、屡々国語の文章題に興味深い一節を見つける。特に心に残るのは、ライオンとシマウマについて書いていた物である。本文の骨子其れ自体は日本対「欧米」(実に横暴な括りである)で語られた保守的な文化論であったと思うが、此の記述は面白かった。記憶では以下だ。

 「君も落胆させられた事が有るかもしれないが、動物園のライオンは基本的に寝ている。然し其れはライオンの生来の特徴なのである。サバンナでもライオンは日がな一日木陰で寝ている。其れは何故か?肉食動物というのは肉ーー筋肉や脂肪だけを食べる訳ではなく、実は内臓や骨や髄までもをばりばりと喰ってしまう。則ち一回の食事で大変な栄養を取る事が出来る事になる。だから、一度満腹になったら余計な消耗はせず寝て過ごす。彼等はそう何度も狩りをする必要が無いのだ。
 そして、シマウマは其れを「知って」いる。ライオンが満腹状態で寝ている時、実は彼等は悠々と其の近辺で草を食っているのである。ライオンとシマウマはサバンナの同じ箇所でごく普通に共存している。しかし日が経ってライオンが段々と食い気づいてくると、シマウマの見張り係がいち早く其れに気付いて、群全体で前足を左右に高く挙げるジグザグ運動を始める。此れは落伍者を生む為の運動である。動きに満足に付いて来れない者が確定すると、ライオンは狩りの標的を彼に定めて駆け出し、群れはまた、静かに草を食べ出すのだ。」

 シマウマは生贄を差し出す事で赦されている、そして生贄はかなり直接的に選ばれる「弱者」である…という事が、多くの人間には衝撃的であろうか?しかし私の興味を引いたのは、ライオンは満腹ならば襲わない、亦た、与えられる以上は奪わない、という部分である。成る程、考えてみればエネルギーの温存が生存と直結する自然界の摂理としては、至極当然の事だ。だが人間界で生きると「悪意」と「暴力」の在る事を身を以て知る。コンキスタドールが新大陸で先住民を虐殺する必要性など何一つ無かったのだ。近代の日本兵の行いにしても信じられない凶事が多々あるが、原罪とはよく言ったもので、人類という種族は「必要だから」でなく、「殺したいから」ですらなく、「殺せるから」殺す、という余地を持っているのであろう。ライオンとは大した違いである。奪う側が人間界に当て嵌まらない以上、奪われる側の事情も人間界には当て嵌まらない。「悪意」に因って恣意的に選ばれるのみである。

 嗚呼併しながら、「知性」が有ればライオンもとても今の様には振る舞えまい、と私は思う。我々人間を自然界に於いて特異に残虐たらしめ、悪魔たらしめる物は、やはり「知性」に他ならない。

 「今は満腹だが、次の狩りは失敗するかもしれない。それならまだエネルギーが残る明日には動き出して、小さい動物を連日襲って飢えを凌いだ方がいいか?そんな事をすれば俺の周りには何も居なくなる。ならば逃げられる前に一気に…ダメだ、喰い切れずに腐ってしまって、狩りの回数は減らない。唖々!食糧の保存さえできれば、出来る限り多くを襲うのに。でも待てよ、腐肉を喰らう奴と取引すれば、自分が狩りをしなくていいシステムを作れるかもしれん。まぁ欲を言えばシマウマがもっと簡単に餌に下ってくれれば我々としては嬉しいのだが。我々を見ても逃げずに従うシマウマを作れはしないか?とは言えハンティングが無くなるのはつまらない。時々はスポーツとして行おう。」王者の高潔さを全く喪った狡猾な獣が此処に誕生する。

 チンパンジーは、スポーツハンティングをすると聞く。狩る事自体が目的の殺しだ。考える、遊ぶ、工夫するなど凡ゆる高次的価値創出を可能にする「知性」が扱う”事柄”は、実に節操が無いものだ、と他人事(他獣事)になってやっと思える。けれども、と更に考えれば、チンパンジーは、あくまで動く物を色々と触ってみるとか、逃げるのを捕まえるとか、然う云う行為の延長を楽しんでいるだけではないのか。「簡単に殺せる能力に恍惚とする」様な事は、有り得るのか?ならば矢張り此れも、責任転嫁なのかもしれない。原罪は「人」に在りや。斯うして今日も、講師業も漫ろに小学生向け問題集を読み耽る大人をやっているのである。

 ちなみに、算数の問題集には不気味で妙に心惹かれる挿絵が添えられていたりするので、此方も侮れないのであった。

画像1

Leave a Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です