元・教育の成功した子供

 規範意識と強迫観念は人一倍であるのに、気力に著しく欠けている。「気力」と日本語で云うと、何やら軍隊仕立ての「根性」に似た物の様に思われそうであるが、実際には英國語で云うところのenergyが最も近く、胆力とも、体力とも、或いは全てを絡げて生命力とも言い換えられる様な、広範な力能を指して云っている。其れは、”変化を起こす力”である。故に、逆転して私は、”異常に我慢強い”処がある。決して保守の向きに豪胆なのではない。革新の向きに怠惰なのだ。

 此れは幼少の頃培われた性質だ、という確信がある。私は私立小学校に入る為、三つの頃には週二回の塾に連れて行かれていた。私は其処で試験官に御飯を食べる順番を訊ねられたら「好きな物を最後に食べたいので残しておきます」と答えてはならず「三角食べをします」と答えなければならない事や、絵を描く課題で「家があり、右側に川、左側に赤い花が咲いています」と言われたら其れ以外に猫や黄色の太陽を勝手に描き足してはならない事などを学んだ。小学生になると、只大人しく何時間も座っていられる事を大変褒められた。「言われた事を皆と同じ様にこなす」事をこそ、熱烈に求められた。規範に強迫的に従い、状況の革新に怠惰たれ──其れが私の内在化したmessageであった。

 其の後「思考停止」の病理は、二十四の頃突然破れた。然うだとしても長い病である。とは言え自分の人生が自分の物であると気付いてから先、大地を我が足にて踏み締める自己表現の愉快さを存分に愉しんでいるつもりだ。併し地の痩せた”energy”の方は、認識でどうにかなるものでもない。無い所にでも点火して推進力を起こす様な力能は元より期待していないが、より根源的な、心を軽く透明にしておく力、素直に瞬発する力、食欲等に向かう自然な力すらも、何方も皆私には遠い物だ。そんな中で私が特に辛いのは、秋冬の頃些細な願望や動機を実感する様努め、一つ一つを叶えてゆっくり育てた生命力の芽が、春に敗け、夏に根腐れしてゆくのを実感する事である。他人の”energy”が強まると、我が願望と幸福の芽は押し退けられ萎びて死んでゆく。其れを利己的に守る力能すら、私は持ち合わせていない。

 今年も夏が来た。成る可く心を軽く透明に、自然に欲深く、瞬発的に生きたいが、果たして。

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