死せる者と夢想

 人類が、本来決して知り得ない観念を何故だか朧げにでも理解し共有する事が、私にとっては非常に空恐ろしいのであるが、一般的には何ら疑問無く広く受け入れられている様である。此の世で死せる者であれば到底経験し得ない観念──例示するまでも無く、永遠・無限・完全性、神──を、我々が何故か理解し得る、というのは明らかに奇妙で、異常な事である。其れ等を直接認識した事等有る筈も無く、次元を一つ・二つ超えても辿り着くかという極限の高次元的観念を、何故我々は”果てしなさ”として実感しつつ、理解し得るのか…

幻想浪漫的綿埃

 子供であった頃、童話で読み覗く架空世界は”よおろっぱ”なる異国と同じ程度には実在していた。併し其の中で、「本当に桃から生まれた子供がいる」だとか「本当に犬が喋って友達になれる」という風にFictionを信じた事は、どれ程幼い頃でも一度も無かった様に思う。ただ、「王子様という役職がある事」や、「金貨や宝石が実在する事」などは、何故かすんなりと真実だと捉えていた。

勉強とは違う、とは何か

 現場主義的な場所から聴こえてくる【勉強とは違う賢さ】なる概念を理解できずにいる。
 賢さである限り、其れは知性である。論理性は学問の根幹であるのでまさか此処に含まれはしないのだろう、と思うと然うでも無い様だ。一体何が【違う】のであろう。おそらく其処で特別に云われているであろう処理能力の速さや機転、閃きは、そのまま学問的・学習的な実績に直結するものであり、殊更に切り離されて強調される必要は無い。

AIは麗しき過誤を選択できるか

 我が弟は情報技術主義者で進歩史観の持ち主であるので、歴史学で学士を取った循環史観の持ち主とは屡々対照的な立場に立って話すのであるが、彼が「翻訳は最も早く機械化できる分野だろう」と言った時の隔絶は我々の歴史の中でも最も深かった。

懺悔室DIY

 私の永遠の憧れ、デ・ゼッサントが邸宅の水槽の中の入れ子食堂と宝飾の亀、ギュスターヴ・モロー美術館の増殖する額縁と螺旋階段…裏腹、貴族階級でもなし、賛助者なども在ろう筈は無く、豊かな資産で以て丹念に異界的建築を顕現させること叶わない我が人生ではあるが、其れならば子供染みた真似事でも良いから、恥を捨てて、やらぬ後悔でなくやった後悔を取ろうでは無いか…

洗浄を免れる郷愁

 精神が毛羽立っている夜は居間で寝る。然ふ云う時の寝室は大抵日中の行いに対する懲罰室となるからである。閉塞的な自己対話強迫の空間に弱った心は耐えられない。家屋の中で最も開放的な性質を備えているのが居間であり、私は其処に救いを求めるのである。寝台という断崖に囲まれた孤島でなく、曖昧な境界を超えて幾らでも延長していく基底の上にぎこちなく寝転がる。