草花に名の有る事が嬉しい

 最近はすっかり草木の名前を識る愉しさに没頭してしまって、殆ど中毒の様になっている。夢ですら珍しい植物を見付けてはその目、属、種名を調べて、己が図鑑に加えて喜ぶ事を繰り返している。然し本当に、彼等の名前を識る事は面白いのだ。

 例えば路を歩いていて植物が視界に入らない方が珍しいが、そんな時何気無くはたと立ち止まって、(此処にある植物には、一つ残らず全てに名前が有るのだ!)と考えてみると、一方ならぬ清々しさと歓びが私を包む。其れは物言わず棲息していた彼等が嘗ての或る日《言葉を扱う誰か》に見つけられた、奇跡的な邂逅の一つ一つの証明であり、彼等固有の性質・形態の精緻な観察を通して授けられたもので、何かしらの連関と意味があり、相応しい分類に収まる様にもなっている。
然もだ。其れは普段他人に呼び捨てられる為にあるのではない。実生活に於ける記号的識別の為でもない。唯生きるだけなら全く知らなくても良い物だ。実に人間の名前とは異なり、動物の名前とも異なって、植物の名前だけが、彼等について興味と関心を持つ人に識られる為に在るのである。端的に言って、私は植物の名前に人の真の愛を見る。故に其れ自体が愛おしい。
 虞美人草が是程身近に生える花だと、此の世に二十余年居て今更知った。柾、拓殖、要黐、伽羅木が、今迄我が認識世界に実在していなかった事が信じ難い。諧謔家に依る軽やかで自由な名付けに笑って仕舞うのも楽しいし、長ったらしい癖に矢鱈と語感が良い物などは、何度も口に出して読んでみたりするのだ。

 無知な人間には踏まれるだけの草に、名前の有った事が嬉しい。誰かが彼に気付き、言葉を贈った歴史が、其処には在る。

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