綺麗嫌いの耽美主義

 他所では生真面目な整頓家であるが、個の空間となると一転物を散乱とさせる人間は多い。筆者もその内の一人であって、筆者の場合敢えて書類や資料を散乱とさせ置くのが兎に角好きなのである。私が集めた私の趣味を満足させる物品達は、どうも現代的に”収納”されるのが似合わない為に、”審美”の観点からして雑然とさせるのが良かった。木机の端に積まれて溜まっていく資料の断片と、ガラスペンのインクを拭って青く滲んだ紙屑。壁にはピンで留められた地図やら年表やら系統図やらがあって、二冊の書籍は古代エジプトに関する頁を開いたまま、群青の釉に金色で航海賛美の文句が書いてあるアシュトレイの上に重なっている。締め切った出窓に並べられる孔雀の羽根扇子や日本刀のレプリカ、描きかけの絵。鏡貼りの小さなショーケースの木箱には、カトリックの高等学校を卒業する時に貰った象牙色のオルゴールを入れた。椅子には緋繻子の一枚布を掛けた上に更に黒いコーデュロイのローブが引っ掛かっていて、ベッドから床へ流れ落ちる布団はそのままにして振り返れば、怠惰なる贅沢品の残り香が所狭しと展覧されて美しい。

 此の趣向は19世紀末西洋的博物趣味と人工楽園の幻想に影響された故に他ならない。然し特に私が憧れたのは、谷崎潤一郎『痴人の愛』にある、彼の邸宅の様子であった。本作のファム・ファタール、少女ナオミは西洋風の顔立ちをして、活動写真の中のアメリカ女優が如く次々浮世離れの衣装を纏っては目眩く魔力で主人公の理想となり彼を支配するのだが、二人が棲む新奇な洒落た邸宅では、ナオミの其の夢の様な衣服が洗濯されない侭に彼方此方に放って置かれるのである。此の描写が享楽と頽廃の美観をまざまざと表している様に私には思えた。そして、其れを直ちに実践すべきだと思った。

 但し蛋白質の肉体を持つ者にとって其れは現実的に許されざることであった。大人しく服を洗って物を散乱させている。人生を美として観賞する事の上に、自分が生ける人類であるという事実が重く圧し掛かり、夢想を砕くのであった。

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