初学者の夢

 自身としては或る程度真剣に英語習得を志してから、早半年が過ぎた。有識者達に良いと云われる文法書は矢張良書であって、此の身に染み付いた日本式英語教育を一夜にして漂白し、私を使て二百頁を超える大問を難無く解き終えさせた。

 しかし自分の目標設定が余りにも曖昧で──謂わば諦めが悪い故に、『全てを理解したい』という無智な完璧主義的性質が此処でも悪さをし、初学者の分際で身の程知らずの絶望を繰り返している。黙って正統的な文法学習を続けていればよいものを、ただのslung 遊言葉が分からないと忽ち打ちのめされて、其の日はもう英語に当たる気が起こらない。”Nana”なる幼児言葉を理解出来なかったことにも、”生活としての英語圏”への隔絶を感じて、心が折れるのである。

 先日も其の様な事が有ったので書き記しておく。English HeritageのKing Arthurに関する平易な研究映像を見ていた時である。可愛らしい絵で表された幼き英貴族が、笑顔で”チャ、チィ”という様な言葉を言った。彼が西欧有数の資産家であったという語りの直後である。語りには全編字幕が用意されていたのだが、人物の台詞には其れが無かった。私は件の性分に拠って、此の短い言葉が何を表しているか完全に理解しない事には先に進む事が出来なくて、”聞こえた音の様々な片仮名表現+幼児語”で検索したり、音声翻訳に掛けたり無理矢理に綴りを付けたりして電脳知識に泣きついた。結果、最後の方法が功を奏して、其れが本当に何の意味も無い、registerの音真似”cha-ching”だと知った。其の日は無論二度と英語に触れず、酒を飲んで靴を磨いて寝た。

 恐らく別の文化圏の幼児語や擬音語を知る事は、専門的論文を読む事よりも遙かに難しい。分かってはいるが、然し私の漠然とした中でも更に靄がかった終着点は、英語でも何処かしら文学的と云える様な物を書きたいという事であるーー様な気がする。例えば頭に在る物を書く際にふと、此れが記されるべきは日本語では無いと感じる事がある。英語だけでは無い。此れは英語で、彼れは羅甸語で、其れは独逸語で…麗しく言語間を飛び回れたなら何れ程心地よい事だろう。日本語の使い手に産まれた事は芸術的に極めて幸福であったと感じるが、世界には無限の環境と、其処に育まれたる特異的抒情が在るのだ。然う云う異質な目標の為になら、文化隔絶と無智への大袈裟な絶望も一概に妨げではあるまい。元々、叶わずとも良い漠然とした夢である。国境を越えて人と直接対話がしたいという動機で無いのが自分らしいと自嘲しつつ、諦め悪く『全て』を望む。

Leave a Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です