泣きながら猫を撫でる

 或る人が猫を撫でる時に「いいこ、いいこ」と言ったので、私は初めて自分が其の様に云う事が無いと認識できた。然う云えば当たり前に共有される慣例としては此方の方で、私が従来口にしていた「撫で、撫で」と云うのは、当該行為のまこと不必要な謎めいた確認で、実に奇妙ではないか。然し何らの疑念無く、ずっと「撫で、撫で」とやってきたのである。

 気付いたからには、我が家の猫にも慣習と云う物を教えてやろう、そう考えて、帰宅するや否や寝惚け眼で伸びをする獣に忍び寄り、不慣れなままに小声で「いいこ、いいこ」と撫でてみた。

 すると心外な事に、自分の中に強烈なshockが──猜疑心と不安感とが、一気に噴き上がってきたのである。

 「いいこ」?、何を以って?誰にとって、「いい」と云うのか?私は今、唯存在するだけで尊い此奴を、生命を今、不躾に価値判断したのだ。

 直ぐに声を出して弁解をした。私は恥を知らなかった、私はそんな「評価」によって、お前を愛しているわけじゃない。お前は絶対に「いいこ」である必要は無い、私にとってだけじゃなく、誰にとっても──お前自身にとってすら、「よく」ある必要など無い。生まれた儘の高潔さで、嘘を吐かず、研ぎ澄まされて独善的であってくれ。今口走った事を忘れてくれ…そう懇願した。

 勿論多少の自覚はあったのだが、よもやこれ程までに「普通」の、「常識」的慣習を実行するのが苦手とは思わなかった。異常な欠陥的人格を、何度目かも分からず自覚した。どうして此れだけの事が如何しても出来ないのかと、自分を復た嫌いになった。

 ただ然し猫は、何を言った時も変わらず、懇願者の手の我が身を滑る事を気紛れに容認するのである。

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