幻想浪漫的綿埃

 子供であった頃、童話で読み覗く架空世界は”よおろっぱ”なる異国と同じ程度には実在していた。併し其の中で、「本当に桃から生まれた子供がいる」だとか「本当に犬が喋って友達になれる」という風にFictionを信じた事は、どれ程幼い頃でも一度も無かった様に思う。ただ、「王子様という役職がある事」や、「金貨や宝石が実在する事」などは、何故かすんなりと真実だと捉えていた。明らかにFictionだと思われる箇所は信じられないのに、幾つかの”常識”として語られる部分となると、異文化的”事実”として当然の様に私には受け取られたのである。そして二十も悠に超えて、私は未だに其の後遺症と共に在る。童話の中の”常識”を、当たり前に現実世界に適応させてしまう時があるのだ。

 「妖精は死ぬと埃になるんだよ。」
名前はおろか、本筋や主人公がどの様な童話だったかすら思い出せないのだが、此の一節だけを何度も反芻している。初めて読んだ時に、そうか、と心底納得した。どうしてこんな所に大きな埃の塊が?と思う時があった。昨日も一昨日も掃除した教室に、あんなに入れ替わりの激しい図書室の本棚に。埃になる様な塵なんて無かった筈なのに、と。併し妖精は今まで目に見えていなかったけれど、死んで埃になると目に見える様になるから、突然現れた様に見えるのだ。たちまち其れは私の中で新しい知識となり、”真実”となった。
 今でも埃を見ると、ふと「ああ、また妖精が死んだのか」と思ってしまう。気付いて、「違う!埃は妖精ではない。」と強く是正するのだが、幼い頃に身に付けた漢字はなかなか忘れない様に、未だ誤った”常識”を払拭し切れずに居る。妖精自体強烈なFictionじゃないか、とも思うのだが、其の童話ではかなり”語られない”、当然の実在としての扱いだった(様な気がする)為に、世界認識の奥深くまで入り込んでしまった。前提的知識なる物をひっくり返すのは相当に努力が要る。一体私は何歳まで、妖精はいない…と説き続けなければならないのか。

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